竹内明太郎
竹内 明太郎(たけうち めいたろう、安政7年2月28日〈1860年3月20日〉 - 1928年〈昭和3年〉3月23日)は、現在の高知県宿毛市出身の明治・大正期の実業家・衆議院議員。早稲田大学理工学部設立者。竹内綱の長男で吉田茂の兄(異母兄とも)。麻生太郎の大伯父。子は横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身の一つ)教授の竹内強一郎、孫は地理学者、一橋大学教授、日本地理学会会長の竹内啓一、曾孫に、TBSテレビの報道局記者・ニュースキャスターである竹内明、企業経営者の竹内在がいる。エッセイストの麻生和子(茂の三女)は姪、学者の吉田健一(茂の長男)は甥に当たる。
来歴・人物
上京して自由民権運動に関わり、自由党に入党して『東京絵入自由新聞』を創刊する。その後、佐賀県の芳谷炭鉱[1]を経営した。
1902年(明治35年)には遊泉寺銅山の開発に着手すると、1917年に遊泉寺銅山の附属施設として小松鉄工所(後の小松製作所)を設立した[2]。
唐津鉄工所の創立者でもあり、日産自動車の前身の快進社等を設立し、さらに早稲田大学理工学部、高知県工業高等学校(現・高知県立高知工業高等学校)などを創設し、工業立国に尽力した。ちなみに国産第1号車のダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字である。
1915年(大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会(高知県郡部区)から出馬して当選[3]し、2期務めた。1928年3月25日、肺炎で死去した。享年68。
脚注
- ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』
- ^ 石川県のモノづくり産業の歴史と産業遺産
、石川県、2019年10月29日閲覧。
- ^ 高知県郡部区 第12回衆議院議員選挙 -ザ・選挙-
ソース
情報の状況: 19.07.2021 05:17:38 CEST
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